Essay


●●● 「心の図鑑」ごあいさつ ●●●

 いつ思い返しても恥ずかしさに肩をすくめるのだが、私は本当に不細工な子どもだった。顔も形(なり)も性格も、「可愛い」というにはほど遠く、残っている写 真のどれを見ても人前に出すのがはばかられるほど愛嬌がない。
 歯は、いわゆるところの「味噌っ歯」というやつで、前歯から奥歯まで軒並み黒く欠けている。長女初孫の可愛さから、甘いものは与え放題、嫌がる歯磨きは後回しという甘やかしぶりだったのだろう。弱い乳歯は、あっという間に溶けて無くなってしまった。よって、笑っても可愛くない。
 未熟児で生まれたことと、体毛の濃いことが、医学的に関係があるのか、シロウトには知る由もないが、とにかく毛深い子どもで、それも私の不細工な造詣に一役買っていた。毛髪の多さは云うに及ばず、眉毛なども、張飛翼徳でさえ後ずさりするであろうと思われるほど太く長く、手も足も背中までもが、ぎっしりと産毛に覆われていた。
 小学校三、四年のころだったろうか、学校のプール開きの式典の時、同級生一の美少女と隣り合わせに座ったことがある。彼女の手足は細くて長くて、抜けるような色の白さで、そこには産毛の一本も生えてはいないようであった。隣りに並ぶ自分の足に目を移せば、それは太く、薄黒く、足指の付け根にまで毛が生えている、おぞましいものであった。
 憎々しい毛どもめ。家に帰って、母に、
 「どうして私はこんなに毛深いの」
 と涙ながらに訴えると、
 「あなたは未熟児だったから、仕方ないのよ」
 と、医学術的なお答えが返ってきたのは意外だった。
 大人になった頭で冷静に考えれば、「ハァ〜?」と、顔をしかめるところであるが、頑是無い子どもの時分のことであるからして、それで私は納得させられ、「毛深い」という運命を受け入れざるを得なかった。
 お鉢を被ったような、豊かな毛量のおかっぱ頭で、すごい眉、すごい歯、大きな大きな一重瞼の吊り目で、大人たちをじーっと見ているような、何とも嫌らしい子ども、という絵柄をご想像願いたい。
 加えて、性格も極端な内弁慶で、小学校四年までは、口を利ける友だちはたった二人しかいなかった。(その内のひとりは、小学二年生の時、神戸に転校してしまった)小一時間かかる電車通 学のお供は、アクリルケースに入った、数十匹のアゲハチョウの幼虫たちだ。彼らは命の次に大切な存在で、教室でも、通 学電車でも、始終箱の中を覗き込んでいた。青虫毛虫の類をいつも抱いていると、不細工な上に不気味さも加わって、誰も私に近寄ってこない。
 「お前は可愛い」
 と、最後までいってくれた、父母、祖父の肉親の愛に、今となっては最大級の感謝を申し上げるのみである。

 さてさて、長い前置きになったが、そんな私が少しずつ少しずつ成長して、社会性、社交性を身につけ、まがいなりにも人前に出て仕事が出来るまでになれた要因を考えてみた。子どもは誰もが宝石の原石なのだと思う。成長の課程で、人に会い、本を読み、さまざまなことを経験していく。そのひとつひとつが、原石を磨く砥石のようなものなのだ。最初は荒削りに形を作っていって、やがてその人が出会う砥石の数や質によって、宝石の輝きが決まっていくのだ。私は、いい人々に出会い、いい本をたくさん読んで、いい経験をたくさん積むことができたのだと思う。
 勿論、今でもそれは進行形だ。私の宝石は、年毎に磨かれた面が増えていって、光沢を強めている。光の反射の仕方も複雑になり、面 白くなっている。

 「心の図鑑」というのは、私の心の中に残っている、小さな、懐かしいものたちの羅列を意味する。先に書いた例えでいうなら、宝石を磨いてくれた、小さな砥石たちの数々だ。勿論、描き出せば、数に限りはない。ここに並べさせて頂いたのは、本当に一握りの小物たちに過ぎない。それでも、ひとつひとつの絵をご覧頂くうちに、あなたの心の中にも、こういった小物がたくさん眠っていることにお気づき頂くきっかけにはなるのではないか、と密かに願っている。

東菜奈


◎『心の図鑑』(2001年11月 〜 2002年12月掲載)… 目次:

アロマオイル姉さん人形お面 メロンパン肥後の守とうがらしにおいぶくろ釜飯きんちゃく袋毛針カレー粉ほおずきてぬ ぐいブリキの金魚


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